Cross Talk 開学50周年記念対談
滋賀医科大学の「過去×現在×未来」

#01

歩みをたどり、次代を見据えて

前編 熱意に燃えた大学創設期から国立大学法人化の大転換期

2022/9/7 release

滋賀医科大学 第5代 学長

吉川 隆一 KIKKAWA Ryuichi

滋賀医科大学 第8代 学長(現学長)

上本 伸二 UEMOTO Shinji

令和6(2024)年に迎える開学50周年。
その節目を前に、記念対談の第一弾として開学初期より本学に貢献され、第5代学長として国立大学法人化の流れのなかでいくつもの改革を牽引された吉川隆一先生をお招きしました。
上本伸二学長とともに、これまでの歩みとこれからの大学の在り方について語っていただきます。

Chapter.01
熱意に燃えていた大学創設期

上本
 令和6(2024)年の滋賀医科大学開学50周年に向けて準備を進めております記念事業として、今回は吉川隆一先生にお越しいただきお話をうかがいたいと思います。
吉川
 五代目学長を務めました吉川です。どうぞよろしくお願いいたします。
上本
 まずは今から50年近くさかのぼりまして、開学したころの様子についてお聞かせいただけるでしょうか。
吉川
 私が滋賀医科大学に赴任したのは創設3年目で、ちょうど病院の立ち上げ準備のころでした。
当時は母校・大阪大学に勤務しており、非常勤としてこちらへ来ました。ユニークな先生が多く、私の母校とはちょっと雰囲気が違うな、と感じていました。「新しい大学を創るんだ」という熱意に燃えていて、とくに基礎医学に非常に熱心な先生が多かったように思います。
 周りから隔離された立地というのもあるのか、学生にも一体感がありました。実はそのころ、数人の学生が不祥事を起こしたと問題になったことがあったのですが、「彼らは無実だ」と学生集会が開かれ、学生たちはとても団結していましたね。
とくに当時の滋賀医科大学の特徴としては、高学歴の学生が多かった。そういう人が中心になり、非常にまとまりがよかったと記憶しています。
画像:吉川先生
上本
 高学歴というのは学士進学ということですか?
吉川
 そうです。工学部など他学部を卒業して一年生から入学してきた学生が一割ぐらいはいたでしょうか。
 また、昭和53(1978)年10月に附属病院が開院した際には、ワーキンググループを作って診療録の形式について検討しました。当時は京都府立医科大学、京都大学、大阪大学の三大学出身者がそれぞれ別の診療録を使っており、それを一つにするためにまさに喧々諤々の日々でした。結局、そのころ話題になっていたPOMR(Problem Oriented Medical Record:問題指向型診療録)という新形式を採用しました。
新しい病院の立ち上げに向け、三大学の人たちが集まって非常に燃えたディスカッションをしていたことが記憶に残っています。
上本
 病院を開院して、いざ患者さんを受け入れる際には、たくさんの人が来院されたのでしょうか?
吉川
 いえ、実は全然来られなかったんです(笑)
たとえば外来で風邪の症状を訴える患者さんが来院されたとき、医師が「これは風邪ではなく、ちょっと深刻な病気かもしれない」と言うと、患者さんは「それやったら近くの病院に行きますわ」と帰ってしまわれる。
上本
 大学病院に対する考え方が本来とは逆ですね(笑)
吉川
 当初は、本当に近隣の方だけが来られて、重い病気のようだとなると、慣れた病院に移ろうとされてしまう。医大についてほとんど認知されてないという状況でした。
上本
 そんな時期を経て今があるのですね。

附属病院開院式典時の様子(昭和53年9月30日)

開院当時の附属病院

Chapter.02
国立大学法人化の大転換期を経て

上本
 これはぜひ、吉川先生にお聞きしたいと思っていたのですが、先生は開学30周年の節目に学長として在任され、さらに学長として国立大学の法人化という激動の時期を迎えられています。やはりご苦労が多かったのではありませんか。
吉川
 私が学長になったのは平成13(2001)年で、その前からすでに法人化の話が巷で飛び交っていました。各大学でも準備は進められていて、私の前任の小澤和惠学長が法人化検討委員会を立ち上げられ、私の後に学長になられた馬場忠雄先生を委員長として学内で話し合いが進んでいました。
 平成16(2004)年に法人へ移行するまでは、国立大学ではすべての権限が教授会にありました。
法人化後は、運営の責任をはっきりさせるために役員会が、教育研究活動を検討するために教育研究評議会がつくられました。教授会がそれまでもっていた権限を三等分して分担し、さらに外部の人員を入れた経営協議会が経営状態をチェックするというシステムでスタートしました。
上本
 最初は大変だったのではないでしょうか。
吉川
 法人化して段階的に大学の予算も減らされ、場合によっては大学の統合、再編があるんじゃないかともいわれていました。
新しい分権のシステムだけでは十分ではなく、学内の体制を変えていかなければならないと考え、最初に手を入れたのが所謂、数学や物理などの基礎学課程でした。
画像:上本先生
国立大学法人滋賀医科大学 管理運営組織図(平成16年度当時)

上本
 昔の教養課程ですね。
吉川
 他の大学と統合するとなると、教養課程はバッティングし、再編のときに人減らしの対象になる可能性もありますから。
 それはともかく当時、私も含めた執行部や先生方は基礎学課程を重視していて、一人前の医者になるには6年間にわたって身に付けるべきものだと考えていました。たとえば倫理は最初の1、2年で勉強が終わるものではありません。
そこで教養と呼ばれていた分野を医学科のなかに編入することにしたんです。
上本
 今も当学に続いている基礎学課程ですね。
吉川
 カリキュラムの内容に関しても教養課程を受け持つ各教授が担当されていましたが、それを副学長のもとで調整するシステムにしました。
教養を全学的な課題にし、医療人育成教育研究センターを設置しました。
上本
 今もそのシステムは稼働しています。
おっしゃるように6年間を通した倫理教育は重要で、私も本学に赴任して倫理面の配慮に感心しました。とくに解剖学では、ご献体いただくしゃくなげ会の会員様とそのご家族への感謝の姿勢が素晴らしいと感じています。
吉川
 確かに医学生の倫理教育の面で非常にいいモデルではないかと思います。ご献体を受け入れるときに学長・副学長以下がお迎えし、学生に引き渡す献体受入式に出席します。
私が学長のときにはやや形骸化している面があるように感じたこともあり、学生に向けてご遺族からお言葉をいただくということもしていました。

哲学の授業風景(基礎学課程 一般教養科目)

納骨慰霊法要 比叡山延暦寺阿弥陀仏堂にて

納骨慰霊法要 学生による納骨(比叡山横川の大学霊安墓地にて)

上本
 あとは法人化後の変化として影響が大きかったのはやはり予算の削減です。国からの運営交付金は、この12年2期にわたって毎年1%~1.2%削減されています。
しかし本学の運営交付金の歴史を遡って見てみると、研究面で努力を重ね、競争的資金を獲得してこられたことがよくわかるのです。
吉川
 当初から競争的資金を得ることで、交付金の総額を減らさないという気持ちで運営を続けてきたのは確かです。
上本
 国の交付金の全体予算は変わらないわけですから、そのなかで滋賀医科大学は勝ち組で残ってきているといえますね。
吉川
 あとは病院の再開発も進み、外科のメジャーサージェリー(大手術)の数も増えました。病院の収入が上がってきたことも影響していると思います。
上本
 それも大学としての土台がしっかりしているからでしょう。附属病院の経営状態は今も非常に良好です。
2019年度研究費採択率・外部資金受入額

【科学研究費採択率】32.5%(全国平均28.4%)/【外部資金受入額】約19.3億円  

心臓血管外科手術

吉川 隆一 KIKKAWA Ryuichi

昭和38(1963)年大阪大学医学部医学科卒業。同大学第一内科入局後、昭和46(1971)年米国ケース・ウェスタン・リザーブ大学内科フェロー、昭和48(1973)年スイス国ベルン大学内科フェローを経て昭和50(1975)年大阪大学医学部助手。昭和54(1979)年より滋賀医科大学第三内科講師、昭和62(1987)年同大学第三内科助教授、平成7(1995)年同大学第三内科教授を経て、平成13(2001)年に本学第5代学長に就任(平成20(2008)年3月31日まで)、同年4月に本学名誉教授となる。昭和55(1980)年ベルツ賞、平成13(2001)年日本糖尿病合併症学会賞、平成16(2004)年日本腎臓財団学術賞、平成19(2007)年日本糖尿病学会坂口賞を受賞。日本糖尿病学会理事、日本腎臓学会理事及び会長、日本糖尿病合併症学会会長を歴任した。現在は公益財団法人滋賀医学国際協力会理事長、滋賀県健康医療福祉部参与。専門分野は内科学(糖尿病学、内分泌代謝学、腎臓病学)。

吉川 隆一

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