2024/12/3
History of SUMS
滋賀医科大学のあゆみ
滋賀医科大学のあゆみ
-1974
よもやま話Side Story
滋賀県に国立医科大学を設置することは、県民の多年にわたる念願である。現在、わが国の大学医学部(医科大学)の分布は、その偏在が著しく、近畿府県のうち未設置県は本県のみであり、かつ、医師の充足率においても低位にあり、県民は、医療水準の向上と地域医療の充実を強く望んでいる。
われわれは、持てる力を結集し、受け入れ体制を整え、新鮮にして創造的な教育理念に基づく国立医科大学の設置の早期実現に邁進する。
以上決議する。
昭和47年6月1日
国立医科大学滋賀県誘致期成会結成大会
よもやま話Side Story
1971年 |
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1972年 |
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よもやま話Side Story
滋賀医科大学創設準備室は、京都大学が中心となり、京都府立医科大学、大阪大学、滋賀大学、岐阜大学の協力を得て、創設準備室長に脇坂行一京都大学教授(初代本学学長)、創設準備室付教授に中村恒男前京都府立医科大学長(初代本学医学部附属病院長)が任命され、事務職員は滋賀県及び京都大学からの派遣等により構成されました。
京都大学正門を入って西側にある赤煉瓦の建物で本学の構想が練られ、教官選考などの準備が進められました。
1974-1983
よもやま話Side Story
1974年10月の開学時に設置された唯一の学科目は「ドイツ語」です。その半年後の1975年4月には以下の8講座・9学科目を開設されました。
講座 | 解剖学第一、生理学第一、生化学第一、病理学第一、微生物学、内科学第一、外科学第一、小児科学 |
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学科目 | 哲学、社会学、人文地理学、物理学、化学、生物学、数学、英語、保健体育 |
よもやま話Side Story
「しゃくなげ会」は、篤志献体の団体で、会員の皆さまには、ご自身のご遺体を無条件・無報酬でご提供いただいております。これまでにご入会くださいました「しゃくなげ会」会員の皆さまは約4,000名に達します。
会員の皆さまのご理解と全面的なご協力のおかげで、充実した解剖学の教育と研究を進めることができております。
解剖体慰霊碑(琵琶湖を見下ろす比叡山横川に1977年建立)
よもやま話Side Story
滋賀医科大学医学部附属病院は、1978年10月1日に開院し、10月4日から外来診療のみで始動、入院受付は10月11日から開始しました。
10月4日、診療初日の外来患者数は108名でした。現在では、1日の平均外来患者数は約1,200名(2020年度実績)にのぼります。
よもやま話Side Story
この樹は大学正門から構内に入った芝生の丘にそびえています。中村恒男初代病院長が日本ヒポクラテス会から寄贈を受け植樹されたもので、中村病院長による説明が添えられています。
(ヒポクラテスの樹の銘文)
「このすずかけの樹は、1980年秋日本ヒポクラテス会のご好意により、コス島の親樹の実から仕立てた苗木として頒けられたものである。その樹の下でヒポクラテスが学生に医学や倫理を講じたと伝えられている。このヒポクラテスゆかりのすずかけの樹が医学生の医師になる熱意と倫理感の成長になんらかの影響を与えることを心から希うものである。」
よもやま話Side Story
病院玄関を入ってすぐの正面に陶壁があります。陶壁には、中村恒男初代病院長の説明が添えられています。
(陶壁「生命(いのち)」の銘文より)
病院の雰囲気を少しでも明るいものにしようと、玄関ホールに陶壁を設けることにしました。そして、それは地元の信楽で焼成したやきものでということになりました。
信楽のやきものには、磁器のもつカラフルな美しさはありませんが、土と炎が織りなす神秘的な地肌の美しさと変化に富む火色の美しさがあります。太陽が放つ無限のエネルギー・・・ 人間が燃やし続ける生命の炎・・・ それらを郷土の土で表現できたらと思い、テーマを病院にふさわしく「生命(いのち)」として、信楽の若い陶工たちに陶壁の制作を依頼しました。そして完成したのがこの陶壁です。宇宙で燃えたぎる太陽エネルギーやあふれる人間の生命力が、ここに凝縮され力感あふれる作品となりました。
この陶壁が病院を明るくし、人間の生命の神秘性、生きることの尊さと美しさ、そんなものを伝えてくれたらと願っています。
当時の様子
1984-2004
よもやま話Side Story
NCD疫学研究センター横(東側)の小道の脇に「開学10周年記念樹」があります。植樹されてから約40年間、滋賀医科大学の日常を見守ってくれています。
樹木の種類は...不明です。わかる方がおられましたら、是非ご連絡ください。
よもやま話Side Story
(看護臨床教育センター 准教授 多川晴美)
当時の私は、集中治療部の看護師として勤務していました。当時、集中治療部は、手術部と一体運営になったばかりで、私は、ちょうどその頃に、4B病棟から異動してきました。
御多分にもれず、当時の手術部と集中治療部の看護師間には見えない厚い壁がありました。手術室とICUのはざまで大変苦労したことを覚えています(涙々の数えきれないエピソードをご紹介できないのが残念です…)。
この時期は、「雨垂れ石を穿つ」でしょうか、私にとってのよいトランジション(過渡期)となり、その後の転換期も乗り越えることができたと思います。
※雨垂れ石を穿つ・・・どんなに小さな力でも、根気よく続けていればいつか成果が得られるということのたとえ。
(看護臨床教育センター 准教授 多川晴美)
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(IR室 准教授 森野勝太郎/医学科16期生)
西門を入ったところにあるポプラ並木。秋になると毎年、目に飛び込んでくる鮮やかな色。朝日で紅色や黄色に輝いている姿を見ると、今日も1日頑張ろうと思えます。
いつ頃からあるのかはわかりませんが、私が学生だった1990年頃にはすでにあったと思います。長きにわたり、多くの人の目にとまって癒しを与えてくれたのではないでしょうか。
(IR室 准教授 森野勝太郎/医学科16期生)
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(研究・企画・国際担当理事/副学長 遠山育夫)
現在の「神経難病研究センター」の前身である「分子神経生物学研究センター」は、滋賀医科大学では最初の附置研究所として1989年に設立され、1992年に建物が完成しました。
私は、分子神経生物学研究センターの開設と同時に解剖学講座から、センターに助手として異動しました。建物ができたときは、とてもうれしくワクワクした気持ちを覚えています。
センターには、本学卒業生はもちろんのこと、京都大学、京都府立医科大学、千葉大学、浜松医科大学、カナダ、中国など、国内外から若い研究者が集まり、多様な環境のもとで、活発に楽しく研究することができました。
その後、留学生も多くなり、「センターに来ると外国に留学しているみたいだ」とよく言われました。この良き伝統が、現在の神経難病研究センターに引き継がれていることをうれしく思うとともに、今後も大切にしていただきたいと願っています。
(研究・企画・国際担当理事/副学長 遠山育夫)
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(看護学科25期生 中村文音)
看護学科校舎6階の東大津高校側の窓から撮影したものです。実習で遅くまで班のメンバーと残って記録をしているときに綺麗な夕日が見えて、元気をもらっていました。
(看護学科25期生 中村文音)
看護学科校舎6階の東大津高校側からの夕焼け
よもやま話Side Story
滋賀医科大学では、開学以来、滋賀県の地域医療を支える医療人の育成に取り組んでいます。平成10年度に国立大学として初めて「地域枠」を導入しました。現在では、多くの大学で「地域枠」が導入されていますが、当時はまだ国立大学に「地域枠」を設けることに対して様々な意見等がありました。
しかし、「地域枠」導入を機会に県内高等学校への訪問を強化し、本学が熱意を持って地域で活躍する医療人の育成に取り組んでいることを伝え、県内高等学校から優秀な学生が集まるようになり、段階的に地域枠定員を拡大しながら現在に至っています。
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(看護学科 講師 山下 敬/看護学科5期生)
瀬田駅から少し歩いたところにあるオムライスが人気のお店。高校時代、そして、私が看護学科の学生だった1998年頃から現在に至るまで、何度行ったことか…。以前は席も少ない小さなお店でしたが、移転されて今の場所に。
部活の新歓、実習の打ち上げ、男性看護師会、忘年会、同窓会など、ことあるごとに集まっていたように思います。卒業後も家族で時々テイクアウトしています。近くに寄ったときは、無性に食べたくなります。
(看護学科 講師 山下 敬/看護学科5期生)
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(医学科6年 北川実侑)
ある秋の晴れた日、マルチメディアセンターの1番奥の演習室からふと窓の外を覗いてみると…真っ赤に紅葉した、美しい木を見つけました。図書館の横を通り過ぎ、NCD疫学研究センターの入り口横の通路を歩いていくと、その紅葉が見える場所にたどり着きます。小さな池と紅葉のコラボレーション。大学を探索しなければ見つからない、ちょっとしたフォトスポットになるかもしれません。映え写真が撮れるかも…!
(医学科6年 北川実侑)
現在の様子
2004-
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平成19年度から文部科学省GPの補助を得て、地域「里親」による学生支援プログラムを開始しました。これは、本学卒業生や地域の方々が里親やプチ里親となって、学生の進路等の相談に対応するなどの支援や交流を行い、学生に滋賀県の文化・歴史や医療事情等を知る機会をつくり、卒業後は県内で医療人となり地域医療に貢献しようという思いを育む取り組みで、文部科学省の補助金修了後も大学独自の事業として継続しており、2011年にはNPO法人滋賀医療人育成協力機構が設立され、現在も様々な取組を行っています。
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(医学・看護学教育センター教授 向所賢一/医学科14期生)
私が病理学講座に所属していた頃、当時のボスの服部隆則先生(現名誉教授)の“口癖?”が、「賢(=賢一)、世界や、世界と勝負するんや!!」でした。
2011年7月の雨上がり、管理棟の上に大きな虹がかかりました。急いで撮影に行き、この写真を見て服部先生と一緒に一句考えました。
「虹色の 個性輝く 未来人
目指すは世界 滋賀医大発」。
この写真をスライドにし、時々、学生を鼓舞しています。
(医学・看護学教育センター教授 向所賢一/医学科14期生)
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(患者支援センター副看護師長 小池ゆかり/看護学科12期生)
私が学生だった2005年頃は、大学の敷地にはあちこちに喫煙所がありました。授業の合間やお昼ごはんの後には、人々が自然と集まる場所となっていました。特に、試験期間や国家試験の前には、昼夜を問わず、試験勉強の息抜きをする学生の姿が印象的でした。
現在、滋賀医科大学では、大学・病院ともに、敷地内全面禁煙です。今では、綺麗になった校舎のソファやベンチが学生たちの憩いの場になっています。
(患者支援センター副看護師長 小池ゆかり/看護学科12期生)
よもやま話Side Story
平成22年、「滋賀県地域医療再生計画」に基づき、滋賀県、東近江市、(独)国立病院機構(NHO)と協定を締結し、NHO滋賀病院(現NHO東近江総合医療センター)に寄附講座を設置し、地域医療の再生に向けた教育・研究・診療活動を推進してきました。協定期間終了後は、平成26年にNHO及び東近江市と、平成27年に(独)地域医療機能推進機構(JCHO)と、令和2年に公立甲賀病院組合と「地域医療教育研究拠点に関する協定」をそれぞれ締結し、NHO東近江総合医療センター、JCHO滋賀病院、公立甲賀病院の3ヶ所に活動拠点を設け、医師派遣による地域医療支援や地域医療を担える医師養成等に取り組んでいます。
よもやま話Side Story
特定行為とは、実践的な理解力や判断能力のほか、高度な専門知識や技術をもって行う診療補助のことです。医師があらかじめ作成する「手順書」という包括的指示のもと看護師が実践します。特定行為は、21区分38行為で構成されています。
2016年2月に、国立大学として初めて「保健師看護師法に基づく特定行為研修」の指定研修機関として指定を受けました。
開講当時は、3区分6行為でスタートしましたが、現在では、21区分38行為すべての研修を実施しています。また、多彩なコースを用意しており、特定行為研修センターを入り口とした研修、大学院修士課程を入り口とした研修があります。また、共通科目等においてeラーニングを取り入れており、仕事と両立しやすいカリキュラムとなっています。
よもやま話Side Story
滋賀医科大学では、女性医師のキャリア継続、現場復帰を支援するために、一人ひとりの悩みに合わせた支援「女性医師のためのスキルズアッププログラム」を実施しています。
これらの取組が評価され、平成29年度「女性のチャレンジ賞特別部門賞」を受賞しました。
よもやま話Side Story
リップルテラスは、病院利用者へのサービス向上及び大学関係者の福利厚生の充実を目的としてオープンしたもので、1階に院外薬局2店舗とコンビニエンスストア、2階・3階には大学活用スペースとして会議室、多目的室、講義室等を設置しています。
民間事業者の資金によって建物を整備、本学は民間事業者へ土地を有償貸与することで、費用負担なく施設整備を行うという手法で、この整備手法によるアメニティ施設整備は、全国の国立大学で初めてのケースとなりました。本事業がモデルケースとなり、同様の動きが全国に波及しました。
よもやま話Side Story
(医学科6年 北川実侑)
コロナ禍になり食堂の様子もガラッと変わりました。テーブルごとに置かれた仕切り、一席置きに貼られたバツ印、すべての席で見られる「黙食」の文字。このような状況になり、改めて誰かと一緒に食事をとることの喜びを感じている方もいるのではないでしょうか。早く、元気な声が飛び交う、にぎやかな明るい食堂に戻ることを願っています。
(医学科6年 北川実侑)
※2022年5月時点
SHIGA UNIVERSITY OF MEDICAL SCIENCE 50th Anniversary
滋賀医科大学は1974年、「一県一医大」構想の下、滋賀県に開学いたしました。
誘致運動から現在に至るまで試行錯誤と挑戦を繰り返した
50年のあゆみを写真とともに振り返ります。