Congratulatory Message

お祝いのメッセージ

滋賀医科大学の卒業生や関係各所から50周年を迎えお祝いメッセージをいただいております。

卒業生・その他

33期生

全 梨花

画像:全 梨花

滋賀医大 開学50周年記念

開学50周年おめでとうございます。私は33期生で、早いもので卒業して10年がたち、医師11年目となりました。卒業後、滋賀医大で研修を行い、滋賀医大産婦人科に入局し、産婦人科医として臨床に励んでいましたが、現在は滋賀医大で大学院生として、「新生児低酸素性虚血性脳症」の研究を行っています。

臨床で働いている間は、大学に立ち寄ることは少なかったですが、ここ3-4年は基礎研究を行っていたため、中庭を通ったり、食堂に行ったり、学生時代を過ごした場所に戻ってきた感じでした。ただ、福利棟や基礎研究棟など改修工事が進んでおり、自分の学生時代よりはきれいになったなぁという印象です。勉強するスペースもおしゃれに整備され、隣の文化ゾーンにもカフェができ、教室以外の場所でも有意義に過ごすことができるようになっていると思います。

基礎で研究を行なっていると、学生さんと接する機会もあり、部活に勉強に研究にと色々なことにチャレンジする若い力にパワーをもらいます。先日、4年ぶりに行われた若鮎祭に自分の子どもと参加しました。中庭に作られたステージに大きな鮎の絵が描かれており、ステージでのダンスパフォーマンスに会場は大盛り上がりでした。近江商人の言葉に「琵琶湖の鮎は外に出て大きくなる」というものがあるそうで、琵琶湖の鮎は琵琶湖を離れて川に出ると大きく成長するそうです。

33期生の皆さんも日本や海外、色々なところで活躍されていると噂を聞きますが、これからも滋賀医大の卒業生がどんどん活躍して、滋賀医大卒であることを誇れるような大学になってほしいと思います。先輩、後輩の活躍に負けないよう、私自身も滋賀県の周産期医療の未来に役立てるようがんばっていきます!

卒業生・その他

看護学科第21期卒業生 学年幹事

東野 万由子

まずは、滋賀医科大学が開学50周年となりますことを、心よりお祝い申し上げます。医・看護の道を志す者としての自分たちの原点となる母校が50周年という節目を迎えることを嬉しくもあり誇らしくも思います。せっかくこの機会に母校の記念事業に寄稿する機会をいただきましたので、私が滋賀医科大学に入学したきっかけや大学時代の思い出などを書いてみようと思います。ちなみに、学年のみんなには私の一存で文章を考えてよいことについては了承を得ております笑。

私が滋賀医科大学に入学したいと思ったきっかけは、私自身生まれつき眼が悪くて附属病院の眼科に通っていたところからです。物心がつく前から徐々に成長するにつれ、「こんな素敵なお医者さんや看護師さんが関わってくれてるんだな、私もいつか医療を提供する側になれたらいいな」と思ったのがきっかけです。そして中学・高校と勉強をしていくにつれ、自分にとって身近であった滋賀医科大学に入りたいという思いが強くなりました。大学受験を終え、無事合格した時は高校の担任の先生と抱き合って嬉し泣きをしたのを今でも鮮明に覚えているくらいです。

大学に入ると、素敵な友人や先輩・後輩が沢山できました。今改めて思えば、きっかけは様々でも同じ看護(医療従事者)を志す者同志である事が、自分の勉強や部活の励みになっていたのではないかと思います。もちろん、日々の座学や実習も難しいし忙しくて、睡眠時間を削ってまで課題や実習記録に取り組んだこともあったし…、正直に言えばもう実習は経験したくない、なんて思ってしまいますが(先生達ごめんなさい!)、看護師として働き始めた時に、学生の頃に苦労して勉強しておいて良かったなという場面に遭うこともあり、学生の頃に培った知識や技術が、今でも自分の中の看護・医療の根底にあることを改めて実感しています。

また、部活動ではオーケストラ部に所属していました。年に2回ある定期演奏会では、現役の部員だけではなく、足りないパートなどの人数を補うためにOB OGも参加する事があるのですが、過去に一緒に演奏した事がある・ない先輩とも一緒に演奏できることの嬉しさや楽しさは計り知れません。様々な楽器や同じ楽器でも違う音を演奏したりして一つの曲が出来上がっています。みんなで協力して一つの曲を演奏する、みんなで協働して一人の患者さんに関わる、なんとなく多職種連携の場面に似ていると思いました。今は一般のオーケストラ団体に所属していますが、大学オケの指導者からの繋がりで入団できました。病院の中でも外でも、医療従事者としてもアマチュア音楽家としても、今の私があるのは大学時代の人間関係が良かったからだと言っても過言ではないと思います。

なんだかとても自分語りをしてしまいましたが、要するに滋賀医科大学が私の母校であって良かったな、と心から思います。私たちの母校の益々のご発展とご活躍を祈念しております。

卒業生・その他

17期生

牧石 徹也

画像:牧石 徹也

17期生の牧石です。サカトモ(学年幹事)から原稿を書くよう指示があり−どうもオザワの入れ知恵らしい−、その時点で締切り1週前でした。適任者は他に大勢おられると思いますがそういう事情です。近況ですが、縁あって数年前から島根大学で働いています。同期の藤谷、テニス部でしばき倒された熱心にご指導下さった一学年上の金﨑さんが、それぞれ基礎と臨床の重鎮教授でおられいつも助けてもらっています。藤谷はゴルフ沼にハマっていて、ゴルフ部の顧問をしています。

母校が創立50年とのこと。ちょうど我々17期生もその辺りの年齢の方が多いかと思います。「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」(論語)そうですが、自分自身の精神構造は滋賀医大に入学した頃と大して変わらず、医師としても患者さんの枕の位置を変える程度のことに終始しています。おそらく母校は変わったのでしょうね。我々が入学した頃は龍谷大学も立命館大学もなければ南草津に街はなく、およそ大学の周りにはヘンテコリンなヤンマーの社屋があるのみでした。受験の日も入学式の日も曇り空で、晴れやかな人生の節目にありながら皆一様に微妙な表情だった気がします。1学年100人のみの単科大学、A組B組50人ずつ、高校時代と変わらない教室、机と椅子。受験勉強の向こうに待っているはずのキラキラした「キャンパスライフ」はそこにはないように見えました。

ところが、です。住めば都、石の上にも3年、コーポ松尾には6年とはよく言ったもの。希望ヶ丘での泊まりがけの懇親会から続く日々のなんと濃密であったこと。テニス部(と野崎先生)、スキー部(と山川先生)、石走会、学園祭(とアミーゴ)、ローゼン(とおかみさん)、ファーストポケットビル、凝縮された6年間。スマホはおろかネットすらない牧歌的な時代、カリキュラムもおおらかで、いわゆるモラトリアムな雰囲気にたっぷりと浸かりながら、それでいて皆それぞれ必死にもがいてましたよね。時代はバブルの余韻が冷めて就職氷河期へ移り、オウム真理教事件や阪神淡路大震災が起こるなど20世紀末の決して明るくない世相の中で卒業を迎えました。今振り返れば、笑いと感謝、後悔と挫折、申し訳なさ、野望(無謀)、幾つかのとても悲しい事故、そんな感情が断片的な記憶とともに湧き上がってくるのを感じます。我々が6年生だった1996年発売の年間シングルベストはミスチルの『名もなき詩』でした(俺調べ)。

なーんて知った風なことを書きながらも、もう一度滋賀医大の1年次に戻ったら同じ失敗を繰り返す確信あり笑。同期のみんなもそうじゃない?だって卒業10年の同窓会では、立場は違えど全員あの頃とまったく変わってなかったやん。同期の皆さん、あの頃の滋賀医大の包容力に感謝しつつ、卒業30年の同窓会ではお互い少しは成長してお会いしましょう!滋賀医大開学50年、おめでとうございます。

島大第一内科教授室にて。左から藤谷(17期)、牧石、金﨑さん(16期)

テニス部の近しい学年の懇親会で。左から藤谷さん(旧姓瀬木)(17期)、野崎先生、田﨑さん(旧姓杉浦)(17期)

卒業生・その他

看護学科5期生

福家 妙子

学生時代からのご縁に感謝して

早いもので本学を卒業してから20年以上がたちました。就職や進学など人生の節目節目で、卒業後も本学の先生方にはお世話になり感謝しています。卒業後時折本学を訪れるたびに、記憶の中と変わらない看護学科棟があり、学生時代の思い出がよみがえり懐かしい気持ちになります。

就職して社会人となり仕事の厳しさにぶつかったり、結婚して子育てと仕事との両立に悩んだり。いろいろなことがありましたが、大学時代からの変わらぬ友人たちが20年以上たってもなぜか近所に住んでおり、子どもと一緒にご飯会をしたり、キャンプに行ったりと変わらず付き合いがあることがとてもうれしいです。皆それぞれに仕事と子育てに頑張っている姿をみると、私も負けずに頑張ろうという気持ちになります。子どもが小さいうちは子連れで昼間に集まることがほとんどでしたが、最近はそれぞれ子供たちも成長したため、夕ご飯を作って夫に子どもをみてもらって、なんと友人たちと飲み会ができるようになりました!少しの時間子どもと離れて、昔の様に友達とお酒が飲める日がくるなんて・・・。とっても贅沢をしているような気分です。友人たちと集まって話をしていると、みんな年はとっても中身は全然かわらないんだなあということにしみじみ。話題は子どもの受験のことだったり、塾代のことだったり、自分の健康のことだったりと、最近は月日の流れを感じますが、トークの勢いは20代のままです。学生時代からの大切なご縁に感謝して、日々楽しく、自分の仕事に誠実に生きていきたいです。

卒業生・その他

滋賀医科大学19期 平成11年卒
洛和会音羽病院 呼吸器外科部長

北村 将司

画像:北村 将司

滋賀医科大学開学50周年記念誌によせて

滋賀医科大学開学50周年、心よりおめでとうございます。私は19期生の一員として、大学時代の思い出を振り返り、この特別な年を共にお祝いできることを嬉しく思っています。

滋賀医大で過ごした6年間は、濃密で楽しい時間で満ち溢れていました。現在の中庭は老朽化しリニューアルを迎えるとのことですが、私たちが入学した頃の中庭には、水を張った美しい?池が広がっていました。休み時間や暇なときには、仲の良い同級生たちと池の周りで集まり、思い思いの時間を過ごしていました。
そこから生まれたのが私たち「アメンボクラブ」です。池には多少の魚類やアメンボが生息しており、これをきっかけに学生生活を共に歩むゆかいな仲間たちとグループを作りました。卒業旅行に一緒にいったり、卒業アルバムにも掲載してもらったり、そして今でも年に1-2回の頻度で連絡を取り合い、愚痴をこぼし合っており、仲間としての絆は今も変わりません。卒業後、各々がそれぞれの道で活躍している姿を見ると、卒業後25年の時間が本当にあっという間だったと実感しています。また、今でも学生時代の同級生、先輩、後輩、お世話になった先生方との繋がりは、かけがえのない存在となって生きています。

学生時代の思い出には、ポリクリや西医体、若鮎祭など多くのエピソードがありますが、特に若鮎祭では中庭に水上ステージが設営され、有名な?タレントさんがコンサートを開いたときには、ファン?が池に飛び込んで近づいていくのを学祭スタッフが制止していたこともありました。そういえば、食堂の横にあった池では、浜医戦のあとに打ち上げで「ビールかけ」をしたせいで、池からビールのにおいがただよっていたり、その池の中で胴上げしたりと、昔のことなので現在のコンプライアンスに照らし合わせると問題があるかもしれません。開学50周年の記念にふさわしいエピソードかどうかはわかりませんが、私にとっては楽しい思い出でした。

50周年を祝う今日、滋賀医科大学がこれからも更なる飛躍を遂げ、未来の学生たちにも素晴らしい思い出(コンプライアンスも大丈夫な)を提供し続けることを願っています。
50周年、おめでとうございます。

Topics お知らせ

一覧を見る

SHIGA UNIVERSITY OF MEDICAL SCIENCE 50th Anniversary