Congratulatory Message

お祝いのメッセージ

滋賀医科大学の卒業生や関係各所から50周年を迎えお祝いメッセージをいただいております。

卒業生・その他

医学科32期生

近藤 享史

開学50周年に寄せて

この度、滋賀医科大学開学50周年を迎えられましたこと、心よりお喜び申し上げます。
私は平成18年に医学科に入学しました。6年間の在学中は、単科医大ならではの顔の見える関係で、強い縦横の繋がりを感じながら、学業や体育会など課外活動に取り組んだ事が思い出されます。

営業中とばかりに賑わう試験前の食堂の夜の様子や、初めての解剖実習の際の厳かな空気感など懐かしく思い起こしますが、特に4回生の際の自主研修は貴重な経験となりました。小島秀人先生のご紹介で米国のベイラー医科大学で夏休みの間、基礎研究に従事させて頂きましたが、渡米前の研究室での実験手技の修練を含め、学生の早い段階で視野の広がる経験をご準備頂いていた環境に今更ながら感謝申し上げる次第です。

課外活動では、学園祭の運営に四苦八苦したのも良い思い出です。運営委員長を拝命し、医学科、看護学科併せて100名超束ねる経験をすることになりましたが、文字通り皆のおかげでやり遂げる事ができ、人の力を身を持って実感することとなりました。初めてステージの企画も2箇所で行い、催し物も増やして開催しましたが、その後暫く踏襲されていたようです。

卒業後は東京の聖路加国際病院で初期研修を行いましたが、優秀な卒業生の先輩も在院されており、同窓の縁にも助けられました。その後、地元北海道を経て、現在は横浜の小児病院で外科医として働いております。当時大学病院の小児外科を担っておられた久保田良浩先生に語って頂いたその魅力に魅了され、今に至ります。卒後10年以上経過し母校には未だ戻らず、滋賀を出た若鮎は未だ大海を彷徨っておりますが、母校への謝意を忘れずこれからも邁進して参ります。

末筆となりましたが、滋賀医科大学の益々のご発展、多様な思いを抱える学生達の良き学び舎となることを祈念しております。

 

自主研修

学園祭

卒業生・その他

医学科4期生 学年幹事
石澤整形外科

石澤 命仁

開学50周年に寄せて

開学50周年おめでとうございます。個人的な思い出ばかりで申し訳ありませんが、この機会に半世紀を振り返ってみます。私の入学は1978年で、当時、瀬田駅の南東、新興住宅地開発途上にあった一里山3丁目、一面に広がる田圃の中に建てられた「学生ハイツ ブルースカイ」と称する軽量鉄骨造りの新築学生寮での下宿生活が始まりました。我々、4期生の構成は現在とはかなり異なり、女子学生はわずか7人、関東出身者がおよそ30%、他大学卒業後、あるいは脱サラしての入学者(長老組20~30%)も多く、新入生(同じ二浪が最多:30%)の私には学業以上に長老の同級生から学ぶところが多かった様に思います。当時は街灯も少なく、晴れた夜には銀河を肉眼で観望できました。周囲への騒音を気にする必要は無いと思い、子供の頃挫折したバイオリンの練習を再開、ところが、隣室は回転が早かった様で、隣室の諸君には騒音被害を及ぼし申し訳なく思います。

多くの面白い同級生や先輩に恵まれ、「ブルースカイ」では連夜、寮友(同期10人くらいと先輩・後輩、全部で20人くらいの入居者のほとんどが滋賀医大の学生でした)と飲み明かし、クラブはワンダーフォーゲル(顧問は放射線基礎医学講座 青山 喬教授、初代キャプテンは渡田 正二さん(3期生))で活動、夏休みは北アルプスで過ごし、冬は長老・スキーの達人 岩崎 淳君に連れられて大勢で後立山山麓・飯森の民宿「大文」を常宿とし、五竜とおみスキー場(現白馬五竜スキー場)に遊びました。試験はチームワークで乗り切り(試験前夜、長老組の「大先生」今泉 徹さんをブルースカイに拉致して教えてもらったことも何度かありました)晴れて卒業、1984年七川 歓次教授主宰の整形外科学教室に入局、個性的な教室スタッフ、同期の盟友、先輩、後輩、そして大学・附属病院職員の方々から多くを学びました。1995年の阪神淡路大震災では、滋賀医大救援隊が結成され、避難所となった神戸の小学校で医療活動をしたことも忘れ得ぬ思い出です。また、二代目の福田 眞輔教授の発案で整形外科教室専属楽団として結成したThe Delayed Unions(整形外科用語である骨折遷延治癒の意味で浅嶌 周造君(6期生)が命名)では、医局の忘年会や学会懇親会などで数々の演奏活動を繰り広げました。

こうして1988年より2001年までの13年間を滋賀医大で働き、その間には、松本 圭司先生と骨・軟部腫瘍診療班を立ち上げ、研究では臨床検査医学講座(検査部) 岡部 英俊教授の御指導を仰ぎました。2001年大阪・豊中で父の医院を継承し開業しましたが、その後も滋賀医大との関係は未だに途切れず、非常勤で外来診療に従事、滋賀医大管弦楽団のエキストラにも時々誘ってもらっております。

西門駐車場から歩くとまず目に飛び込み、印象的だったハナミズキも今は無く、その場所は学生ラウンジの新しい建物となっており、入学から45年の時の流れを感じますが、同期の友情は永遠不滅です(写真)。母校の益々の発展を祈念します。

2023年の「53会」(4期生の集い。毎年6月に開催)

卒業生・その他

医学科12期生

影山 進

私は1986年(昭和61年)に入学、1992年(平成4年)の卒業です。卒後は本学泌尿器科学講座に入局しました。90年代をいくつかの基幹病院で勤務し、2000年に本学大学院に進学、大学院卒業後は本学教員となり、現在に至ります。学生時代を併せると30年近く本学に在籍してきました。10年ひと昔と言いますが、10年どころか30年経つと本当に隔世の感があります。

瀬田の町もすっかり様変わりしました。入学した頃、学園通りの住宅街も新幹線の線路までしかなく、それ以降はひたすら山の中を大学へ向かうほぼ一本道でした。京滋バイパスも新名神も、龍谷大学や立命館大学もなく、本学と東大津高校が物寂しく山奥に鎮座していました。初めて訪れた際には、「こんな山の中に大学なんてあるのだろうか」とバスの乗り間違えを気にしたほどでした。長らく母校を訪れていない方には信じられないかもしれませんが、今では本学外周道路や通称「瀬田高速」が時にひどい渋滞になります。人里離れた寂しい地のイメージとは全く変わってしまいました。

大学の中では、教職員・患者さん・学生いずれも増加し、それに伴い建物と駐車場が増えました。今では駐車場となっている体育館の南側は、長らく原っぱでした。我々の学生時代はゴルフ部員がネットを立てて練習していた記憶があります。そこは小さな虫たちの楽園でしたが、すっかりアスファルトで覆われてしまいました。そんな変化が学内随所にあります。何度もハマった中庭の池も、近々消えることになります。我々世代には若干寂しい思いもございますが、これからの学生には生まれ変わる新しい中庭が彼らの思い出の場所となることかと思います。

我々12期生も卒後30年を過ぎ、医師としては円熟期(?)に入りました。同級生の動向はいつも気にしています。今はいい時代で、インターネットを通じて皆の活躍を簡単に知ることができます。開業し一国一城の主として、あるいは基幹病院の責任者として、あるいは国内外の大学教員や研究者として、それぞれの分野で活躍している様子を知ることが出来、嬉しい限りです。同級生の頑張りを知り、彼らを尊敬するとともに、自分を奮い立たせることがたびたびあります。

色々変わってしまった30年ですが、長く本学にいる者として「変わらないなあ」と感じるのは、学生たちの元気さです。時代は進めど、若いパワーと輝きは変わりません。大学ですから、そうあるべきだと個人的には思っています。粗削りだった学生たちと、数年後に立派な医師となって再会できる瞬間が、今では最大の楽しみになっています。

新入生行事の一コマ。私の手元にあった1年生時の唯一の写真です。(東海道石部宿歴史民俗資料館にて。青い服が筆者)

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