Congratulatory Message

お祝いのメッセージ

滋賀医科大学の卒業生や関係各所から50周年を迎えお祝いメッセージをいただいております。

滋賀医科大学 名誉教授

竹内 義博

開学50周年に思う

2001年2月に滋賀医科大学に赴任した際、本学は緑と光に満ちた美しい地に広大なキャンパスを有し、教育・研究に申し分のない環境であり、この地は私にとって輝く緑の国であると感じた。8年後に教授折返し点を迎えた際も、本学が更に清潔で透明性の高い医科大学になったことを奉職している者として誇りに思った。当時、医師国家試験の合格率は関西地区でほぼ毎年一位、全国でもトップクラスを維持し、2011・2012年は全国一位に輝いた。独立行政法人となり大学全体に良い緊張感があったように思う。


大先輩の島田司巳教授の跡を継いで主宰した小児科学講座は「母校への熱い思いを胸に真の全人的医療を実践する未来志向の科」を目指した。「こどものために闘う小児科」を掲げ、幸い15年間に使命感の強い優秀な入局者を多数迎えることができた。

私自身は2003年3月に病院再開発委員会委員長を命ぜられた。赴任してまだ2年経たばかりで滋賀医科大学の大事業である病院再開発の責任者を引き受けた理由は、本学に対する感謝と矜持に他ならない。総経費202億円の病院再開発事業が完了するまでの足掛け10年間、委員長および副病院長として病院再開発にエネルギーを注ぐことになった(写真1:2012年3月21日 第125回病院再開発委員会)。私も学ぶことが多く、なかでも「先人の知恵」は忘れてはならなかった。本学赴任当初から「暗くて狭い病院玄関ホールの閉塞感を払拭したい」という思いが強かった私は、周囲が雑然とし存在感の薄かった病院玄関正面の陶壁を撤去・移設するという方針を委員会で決定し、当時の馬場忠雄学長に報告した。その際「病院玄関の陶壁には大切な意味があるのではないか。」と釘を刺された。再開発も終盤を迎え、玄関ホールが拡張され明るく整然とした空間に生まれ変わるにつれて、これまでくすんで見えた陶壁が燦然と輝き力強く語りかけ来た(写真2)。初代病院長の中村恒男先生(元京都府立医科大学学長)が「生命(いのち)」と命名された陶壁には次のような銘文が添えられている。

写真1:2012年3月21日 第125回病院再開発委員会(最終回)

写真2:病院玄関 陶壁「生命」

「太陽が放つ無限のエネルギー、人間が燃やし続ける生命の炎、それらを郷土の土で表現できたらと思い、信楽の若い陶工たちに陶壁の制作を依頼しました。—太陽のエネルギーやあふれる人間の生命力が、ここに凝縮され力感あふれる作品となりました。この陶壁が病院を明るくし、人間の生命の神秘性、生きることの尊さと美しさ、そんなものを伝えてくれたらと願っています。」 正に病院再開発の理念そのものであった。

滋賀医科大学は我が国では数少ない国立大学法人単科医科大学の道を選んだが、正しい選択であったと思う。「地上において大学ほど美しいものはない」と言う言葉は今日でも真実であって欲しい。開学50周年を迎えた滋賀医科大学が新たな一歩を力強く踏み出し、将来我が国の医学界・医療界に聳える姿を期待したい。

滋賀医科大学 名誉教授

医仁会 武田総合病院 名誉院長

森田 陸司

画像:森田 陸司

滋賀医科大学の更なる飛躍を期待

私が滋賀医大附属病院長として在職した7年間(2001~2008)は、大学法人化に伴う大学改革と病院改革の激動の波に揉まれ続けた期間でしたが、同時に私にとっては、滋賀医大病院の「潜在能力」と職員の「熱い思い」にひどく感動した7年間でもあります。

私が病院長に就任した2001年当時の滋賀医大病院の経営状態は決して褒められたものではなく、当時の文部省の経営指標では、12新設医大中のブービー、42国立大学病院中の30位というものでした。 それは、それまでの「輸送船団方式」に慣れていた職員には、病院経営などは殆ど念頭になかったからです。   
ところが、自主・自立が要求される法人化後に「生き残る」事を本気に考えた職員は、俄かに一致団結して意識改革に真剣に取り組み始めました。その結果、2年後の文部科学省の経営指標では、全国42大学の内8位以内という短期間に驚異的な成績を成し遂げました。 
危機に際しての職員の変わり身の早さに驚嘆しました。こういう素早い転換を他の大学病院はしませんでした。状況に合わせて機敏に反応出来るのは滋賀医大の特技なのかも知れません。
日本医療機能評価機構受審の最終日のサーベイヤー リーダーの「素晴らしい病院です。いたる所で感動しました」の言葉には、達成感と連帯感を全員で共有し得た思いで胸が熱くなりました。
そして、滋賀医大病院は健全な病院財政と医療に質の確保という望ましい状態で法人化を迎えることが出来ました。これは、病院職員が一丸となって苦しみながら努力した成果です。
これらの努力の成果でもありますが、2005年度に長年の悲願であった病院再開発計画がスタート出来たことは、やや疲れていた病院職員を元気づけて、新たな意欲をそそるものでした。そして、最初の新病棟、病院職員のアイデアと心意気が随所にちりばめられたD病棟が2007年8月に完成しました。

私にとっては、この7年間は私に贈られた宝物です。この時期を何とか無事にしかも有意義に過ごすことが出来たのは、学長の強力なバックアップのもと、病院と大学全職員の温かいご理解とご支援が有ってのことと、深く感謝しております。有難うございました。
滋賀医大には「不可能」はありません。 更なる飛躍を祈ります。

滋賀医科大学 名誉教授

小笠原 一誠

北の街から

札幌に初雪が降りました。私は手稲山に沈む夕日を見ながらランニングをしております。滋賀でも瀬田の夕日を見ながらランニングをしていましたが、瀬田の夕日は歴史を加味した独特の趣きがあり、心に深く残っています。瀬田の夕日を見ながら20年の歳月を滋賀医科大学で楽しく過ごさせていただいたことは、とても幸福だったと思っております。

大学に来ていきなり、遠山先生、松浦先生、私の3名で滋賀医大フォーラムを企画運営せよと小澤学長からご指示がありました。何がなんだかわからないままに終わった印象でした。怖い記憶は無意識に消し去られるようで、今でも何をしたのか想い出せません。大変冷や汗をかいたことだけは覚えておりますが、諸先輩の方々には温かく見守っていただいて、無事終えることができました。

印象に残っているもう一つのことは、臨湖庵での教授会忘年会です。石垣が残った格調高い建物で、大広間に座り諸先輩に囲まれて緊張したのを覚えております。臨湖庵は瀬田城の跡地であり、瀬田城は明智光秀の安土への進軍を足止めした城です。私は週末には大学から瀬田川まで走っていましたが、瀬田城跡を通り過ぎる時には昔の教授会忘年会を懐かしく想い出しておりました。ところで、瀬田川からの帰りの登りはいつも死ぬ思いでした。

私にとって幸いだったことは、滋賀医科大学でカニクイザルを使用した実験を行うことができたことでした。実は滋賀医大に来る前にサルで実験できないかと真剣に考えた時期がありましたが、設備等の関係で夢に終わっていました。その後滋賀医大に来るとカニクイザルが目の前に居たので、実験にカニクイザルを使うことをすぐに決断しました。多くの方々のサポートによりカニクイザルのMHC(主要組織適合遺伝子複合体)が解析され、色々な実験に使用できるようになりました。これまでもインフルエンザウイルスの感染実験でカニクイザルの有用性は確かめていましたが、今回のCOVID-19のパンデミックでカニクイザルの感染実験の必要性が改めて確認されました。今後もカニクイザルを使用した実験の重要度は増して行くと思います。ただし、現在サルの供給不足による値段の高騰が問題となっており、何とか側面から援護できないかと模索しております。

20年間の滋賀医科大学での生活で感じたのは、皆さんの真面目さと芯の強さです。この優れた特性に失敗を恐れない冒険心が加われば、さらに滋賀医科大学は飛躍すると確信しています。滋賀医科大学が地域に根ざした医療と人材を創生しつつ、カニクイザルという世界に誇る資源を使用した失敗を恐れない研究をして、世界へ向けて情報を発信できる大学になることを心より願っております。

滋賀医科大学 名誉教授

(1992年~2009年薬剤部教授)

山路 昭

画像:山路 昭

開学50周年おめでとうございます。

80歳の「幸齢者」として、20年、30年前の現役時代を振り返って寄稿します。

薬剤部の教育・研究体制の充実のため、文部省の方針により国立大学医学部附属病院の薬剤部長を医学部の専任教授とすることが決まり、1992年に島川初代薬剤部長の定年退官にあわせて薬剤部に教授職が配置され、初代薬剤部教授(2代目薬剤部長)として着任し、薬剤部員とともに一丸となって、本院薬剤部の教育・研究体制の充実と薬剤業務の改革に努力しました。教育につきましては、医学科、看護学科において「薬物動態学」の基礎から臨床での「薬物治療学」、特に医薬品の持つプラス面、マイナス面を踏まえた「医薬品の適正使用」について講義しました。また薬剤部での臨床実習では処方箋と調剤、製剤、薬品情報検索などを含めた実際の薬剤業務を体験させるとともに、将来の医師、看護師としてチーム医療を実践していくためにも薬剤師の業務内容を理解し、より視野の広い協調性のある医療人を育成したいと考えていました。なお薬剤部では学外の薬学部の実習生、研修生を毎年、多数受け入れ、薬学教育、薬剤師教育にも力を入れてきました。研究面では「薬物動態の基礎的研究」をはじめ診療科などとの共同研究で「医薬品の適正使用に関する医療薬学的研究」などを行っていましたが、教員が教授だけで講座・研究室の体制がなくやり残した部分も多くありました。しかし後任の寺田教授(現京都大学教授)や現在の森田教授の時代には研究体制も充実し多くの研究業績を残されています。

薬剤業務については他部門との協調を重視し、従来薬剤部内で止まっていた薬剤部の仕事を、院内特に看護部等からの要請に応じて病棟薬剤師活動の開始、発展に薬剤部員全員で力を注いできました。また医薬分業の方向性に従い、院外処方せんの発行拡大に努めましたが、当院の地理的要因で門前薬局はなく、滋賀県薬剤師会とも協議して地域薬局を受け皿とする面分業に注力しました。

本学の建学の精神の一つに地域医療への貢献があり、在任中は滋賀県病院薬剤師会会長や滋賀県薬事審議会委員、会長等を務め県内での交流を深めました。また個人的には亡父の旧制虎姫中学の同級生・友人に初代学長の脇坂行一先生がおられお二人のご縁で、先生の長女と私の従兄弟が結婚し親戚関係にあります。私の長女は医学科16期生で、親子3代にわたりご縁とお世話になり、今回の開学50周年を心よりお祝い申し上げますとともに今後のさらなるご発展を祈念申し上げます。

滋賀医科大学 名誉教授

元学長

馬場 忠雄

学生たちからの贈り物

開学50周年おめでとうございます。

私は、滋賀医科大学医学部附属病院が開院した1978年10月より滋賀医科大学に勤務してきました。内科学第二講座細田四郎教授のもと講師として、故郷でのキャリアをスタートすることになりました。それ以来、内科学第二講座の教授を経て、2014年3月に学長を退任するまで、約35年余り勤務させていただきました。

その間、教育課程や課外活動から幅広い課題を得て、吉川隆一学長のもとで、教育担当の副学長を務め、それらの課題を解決する側となりました。また、国立大学の法人化への対応と大学が独自色を出して、互いに競争することになりました。
卒業生の評価は、卒業後に画期的な基礎研究や臨床研究を生みだすことではありますが、その第一歩となる医師国家試験の合格率は受験生や一般の人には関心があり、医学教育の評価の一つでもあります。

本学の新卒業生の医師国家試験合格率が2008年と2009年に連続して、第一位を獲得した時があり、多くの大学から注目されました。滋賀医大では医師国家試験にどのような対策をとっているのか、次々と問い合わせがあり、実際に本学にも来られました。

私はその時、国家試験の合格率が良くなったのは、学生たちが勉強の内容をお互いに補完する形で、5~6人のグループ学習を行った組み合わせが、良い結果を生み出した、と考えていました。また、不合格になって留年している卒業生には、学内で行われた試験の問題を毎回郵送し、回答の提出を求め、学習のレベルを共有しようとしました。一方、出題傾向もだんだんと変わってきて、断念する人もあったようです。

大学の執行部として長く関わっている間に、地域医療の確保や医師養成の人員増、さらに医学教育の改革の波が、次々と打ち寄せてきました。医師不足、特に地域医療の維持の観点から、全国医学部長病院長会議の地域医療検討委員会を中心に、人口当たりの医師数を経済協力開発機構(OECD)のデータと比較して、改善の必要性を日本医師会や文部科学省に説明し、多くの方々の支持を得て、医学部定 員数の増加と地域枠が実施されました。医学教育の質の保証検討委員会や国際的見地から質を保証する日本医学教育評価機構(JACME)において、世界医学教育連盟の教育基準を各大学が満たしていることを検証する必要性がありました。その基準を満たした医学部卒業生のみに、2023年からアメリカ合衆国の医師免許ECFMGを受ける資格が与えられることになりました。(コロナなどの影響により2024年からになっています。)その対応に、退任後も総合評価委員(2016-2019年)として、各大学の取り組みの検証に携わりました。本学は、2018年9月に認定され、2024年に2度目の受審の予定のようです。

滋賀医科大学では、学生と教官が互いに常に切磋琢磨していることが、向上する原動力につながっているように感じています。
今後の更なるご発展を祈念しております。

付記:佐野 晴洋元学長から自筆「氣佳哉」の立派な掛け軸をいただきました。金子 均先生(湖医会副会長)が写真にして、卓上型にしてくれました。この「書」から、私の一日がスタートします(2023.11 友仁山崎病院にて)

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