Congratulatory Message

お祝いのメッセージ

滋賀医科大学の卒業生や関係各所から50周年を迎えお祝いメッセージをいただいております。

滋賀医科大学 名誉教授

村田 喜代史

画像:村田 喜代史

イマトロンの思い出

滋賀医科大学の開学50周年、おめでとうございます。

私は滋賀医科大学の放射線科、放射線部の職員として30年あまり勤務させていただきましたが、実は、医学部を卒業して半年しか経っていない昭和53年11月に開院間もない滋賀医科大学附属病院に異動することになり、それから3年半の間、坂本先生の下で放射線診断学の研修をしました。当時は、まだ、各診療科のスタッフも数人で、放射線部の中も装置も少なく、第二血管造影室はまだ空室だったので、そこに卓球台をおいて、仕事が終わってから、みんなで卓球をしていたこともありました。読影室も今とは異なって、シャウカステンが壁面に並んでいて、そこにフィルムをかけて、1症例の診断に全員で夜遅くまで議論していましたが、そんな余裕のあった開院の頃を懐かしく思い出します。

大学院、米国留学を終えて帰国した時に、縁があって、再び滋賀医科大学で勤務させてもらうことになりました。私の研究テーマは胸部画像診断法の開発と臨床応用だったのですが、これまでを振り返ってみると、幸運な出来事がいくつかあったなと感じます。京都大学の伊藤先生が肺の高分解能CTを開発されたときに大学院生としてチームに入ったこと、肺の微細血管吻合をX線画像として描出する手法を見つけることができたこと、そして、何よりも、滋賀医科大学で新たな研究を模索していた時に、森田先生のご尽力によって、イマトロン(電子ビームCT)が、日本で2番目に導入されたことは大きな幸運だったと思っています。電子ビームCTは、通常のCTとは全く異なった機構で、機械的な回転はなく、電子ビームの高速移動によって種々の方向からX線を出してCT画像を作る装置で、0.05秒で1画像ができることから、超高速CTとも言われていました。主として、それまでの数秒のスキャン時間のCTでは解析が難しかった心臓の動きを捉えようとするものでした。滋賀医科大学でも、もちろん心臓CTが中心でしたが、私は、動きの影響が抑えられるなら、肺門部においても明瞭な画像が得られて、診断能が向上するのではないか、また、CTにとって邪魔者であった呼吸運動を逆に利用して、肺や胸壁の動きを画像化できるのではないかと考え、イマトロンを用いた新しい呼吸器画像診断法の研究を進めることができ、滋賀医科大学放射線科の研究の一つの柱とすることができました。その後のCT技術の進歩によって、MDCTが登場し、肺や心臓の明瞭な画像や動態評価は当たり前となり、特殊な電子ビーム機構を用いたCT装置は引退となりましたが、CT装置の新しい時代の先駆けであったと考えています。

滋賀医科大学のキャンパスは今、大きな変化を遂げていますが、教育、診療ととともに、研究の分野でも、それぞれの研究者にめぐってくるであろう、いくつかの運を見逃さないように捉えて、研究を大きく発展させ、滋賀医科大学から大きな研究発信がされることを心から願っております。

滋賀医科大学 名誉教授

土井田 幸郎

良き縁と幸運に恵まれて

滋賀医科大学を定年退官して、もう25年以上経ちました。その間、大学からいろいろな情報や案内をいただいてきましたが、後のことは、立派に育った教え子や、後任の方に任せればよいと思い、公式の場には殆ど出席したことはありませんが、大学の発展や、教え子たちの活躍は楽しみに見せていただいてきました。

退官後、龍谷大学などで数年前まで講義などさせてもらってきましたが、医学畑に就職させていただくまで続けてきて、やめ、棚にしまいましたタデ科植物の仕事を再開することにしました。その過程で“河童が蓼を嫌う”という文に出合い、どうして河童が蓼を嫌うのか知りたくなり、蓼の世界だけでなく、河童の世界にもどっぷりと浸ることになりました。

タデに関しても、多方面の資料がたくさん集まりましたが、纏められていませんが、河童に関しては、私が定年を迎える前の年から、水泳部の学生さんたちが、年1回「覇泳」という部誌を出していてくれまして、今も、原稿の依頼が来ますので、「覇泳」第2号から、「河童の川流れ」の題で寄稿させてもらっております。今年もその“27”を寄稿しました。そのお蔭で、水泳部の学生さん達との繋がりが持て、この夏も、プールで泳がせてもらいました。数年前、水泳部の学生さん達から、プールが老朽化し壊されるかもしれないという話を伺い、プール建設時の話など記し、保存されるよう嘆願したこともありました。

私自身は、今91歳。元気で図書館通いや、近所の散歩などしておりますが、 聴力が衰え、口での会話が難しくなってきました。それで、医大在職中に、事務的なことなどでお世話になった何人かの方に、手談(囲碁のこと)の相手をしてもらっております。また、今も、滋賀医大などで教えた子、教員、事務の多くの方々から年賀状をいただいたり、呼び出していただいたりしております。楽しかった在職中の思い出や、縁を大切にして滋賀医大の一層の発展を見守りながら生きていきたいと思っております。

もう65年ほど前、まだ蓼の研究をしていたころ、早池峰山ヘナンブトラノヲ (タデ科植物)の採集に行き、濃霧と雨で採集に失敗したことがあります。数年前、従姉の子に案内してもらい、ナンブトラノヲを見るため早池峰山と、河童の故郷、遠野を訪ねました。写真はナンブトラノヲと常堅寺の河童淵で写したものであります。

滋賀医科大学 名誉教授

岡村 富夫

開学50周年を迎えるにあたり、お世話になった教員OBの一人として、寄稿させていただくことになりました。私は1982年に助手(当時)として留学先から着任し、2016年に二代目教授として定年退職するまで、一貫して薬理学講座にお世話になりました。着任当時の基礎医学講座は教授1名、助教授(当時)1名、助手2名の教員と教室付きの事務職員1名の構成で、比較的ゆったりと穏やかに教育および研究に従事できていたように思います。  

着任当初の講義室にはプロジェクターやオンラインの設備も無かったため、講義の最初に一年分のプリント集を「薬理学シラバス」と称して学生に配布し、講義は板書ベースで行っていたことを懐かしく思い出します。研究成果の発表も国内のみならず積極的に海外で行うように努め、20か国以上の国際学会に参加できたことも、今となれば楽しい思い出です。そのうちに大学の法人化が具体的となり、大学の統合・再編、国家公務員の削減、大学予算の漸減などが社会的な話題となり、学内でも論議されるようになりました。結果的に基礎医学講座では助手1名および教室付きの事務職員1名が削減されると共に研究費も外部からの競争的な資金をより多く獲得することが必然になりました。自身の大学院生当時と比べると、研究に割ける時間的な余裕が無くなっているような気がします。さらに、専門医制度のせいか、臨床医学講座から来られる大学院生も少なくなり、基礎医学講座の主な戦力であった大学院生の減少も講座の運営に余裕が無くなってきた理由の一つと感じています。単に学位を取得するだけでなく、臨床医として患者の診断や治療に際し、自分で立てた仮説を如何に証明すれば誰からも認められるのかという考えは、何れの医学の分野でも役立つものなので、習慣となるように若いうちに経験されることを薦めます。

大学の役職としては、大学の自己評価に関する委員、実験実習支援センター長、三代目医学科長などを仰せつかりました。与えられた各々の役職では予想もしなかった事態が生じ、戸惑うことも有りましたが、種々の貴重な経験をさせていただいたと感謝しております。興味深かった事柄の一つは、初めて霞が関で行われた大学評価のヒアリングにオブザーバーとして参加した際のことです。ヒアリングをする評価委員、ヒアリングされる大学側、それに立ち会う文科省職員のいずれもがぎこちない様子で進行していたのを思い出します。その後、次回の評価に向けて評価方法などが変更されるのですが、最初の評価を受ける際には単科大学で良かったという印象を持ちました。

大学紛争から始まった自身の学生生活から思い浮かべると、社会情勢に即して医科大学や医学界の在り方も大きく変化してきたように思います。振り返るといつも“過渡期”だった様な気がします。今後の展開は読めませんが、常に逞しく堂々と渡り合っていけるような医療人を育てていただくように祈念します。

滋賀医科大学 名誉教授

(名誉教授・整形外科学講座)

福田 眞輔

ピカルディー・ジュール・ヴェルヌ大学と整形外科教室との交流

本学の国際交流協定締結大学の中で七番目に古いPicardie Jules Verne大学(フランスAmiens市、以下アミアン大学)と本学の関係は整形外科教室から始まったことを知っている人はもうあまりおられないだろう。整形外科教室員の村上元庸君(1983年入局、現・滋賀県県会議員)が日仏整形外科学会の交換研修生としてアミアン大学病院へ行き歓迎されて帰って来たのは1992年の秋だった。彼が持参した先方大学学長からの交流希望の親書は当時の岡田慶夫学長の興味を惹いた。2年後の1994年の8月に前記の日仏整形外科学会交換研修生として今度はアミアン大学整形外科からRenaux君が本学整形外科教室へ来て1ヶ月間研修したがこの時彼は岡田学長を表敬訪問している。このようにして交流の気運が熟した。岡田学長夫妻に村上君がお供をしてアミアン大学を訪問したのが1994年の秋、その返礼にアミアン大学学長Bernard Nemitz教授が本学を訪問して正式に国際交流協定の調印をしたのが1995年の春だった。この時の先方随員の一人が小児整形外科のCollet教授で、美人の奥さんと共に数日後に私が大津市で主催した中部日本整形外科災害外科学会まで残ってくれた(写真1)。

写真1

しかしその後は本学とアミアン大学との協定は名ばかりで交流の実はなく一年が過ぎた。岡田学長からこの協定は整形外科がきっかけでできたのだから整形外科が先鞭をとって交流をはかって欲しいと要請された。アミアン大学整形外科主任教授Vives先生に手紙で若手整形外科医の短期交換留学制度を提案したところ快諾され、前記のCollet教授が全権を委任されて1996年4月の日仏整形外科学会に来日した際に私との間で実施細目を協議して合意した(公用語は英語、留学期間は3ヶ月以内、受け入れ側が宿舎を用意など)。

この整形外科教室間の留学制度を利用して最初にアミアン大学へ行ったのが吉川玄逸君(1986年入局、現・整形外科教室同窓会会長)で1996年秋だった。翌1997年春には大学院生の大村喜久雄君(1990年入局)が特別に6ヶ月もAmiensへ行った。同年夏にアミアン大学からも初めて女子学生のAnne-Sophie Batsさんが本学へ来て整形外科で1ヶ月研修した。同年秋には整形外科医のPatrice Mertl君(写真2)が来て本学滞在中に日本整形外科学会基礎学術集会でポスター発表までおこなった。さらに1年置いて1999年春には大学院生森 幹士君(1995年入局、現・整形外科准教授)がAmiensへ行き、向こうからは整形外科医のHavet君が6月ついでJarde教授が10月に来訪した。

 

写真2

私は2000年3月に定年退職したのでその後の事情は定かでないがどうやら整形外科教室間の短期交換留学制度は途絶えているようだ。しかしこの制度で1997年に本学へ来たMertl君が現在アミアン大学整形外科の主任教授になっているので再活性化の好機だと思うが如何なものか。

滋賀医科大学 名誉教授

元副学長

野﨑 光洋

画像:野﨑 光洋

開学当時の思い出

医師不足を解消するための国の政策「一県一医大構想」のもと、滋賀県民の意欲に支えられた「医科大学誘致運動」が実を結び、滋賀医科大学が守山の仮校舎で開学したのは1974年10月1日のことです。開学までの多くの関係者各位のご努力に対し深く敬意を表しますとともに、この度、「開学50周年」を迎えたことは誠におめでたく、心よりお祝い申し上げます。

開学当初、脇坂行一学長、中村恒男副学長(後に病院長)、佐野利勝教授(後に副学長)の3名が就任されました。私は1975年4月一期生を受け入れ大学が実質的にスタートした時、生化学第一講座の教授として着任しました。守山時代を知る者の一人として、記憶をたどりながら当時を振り返り執筆することにしました。

開学前の1974年9月頃、佐野先生から依頼を受けた最初の仕事は入試問題の作成でした。本学の入学試験が国立一期校に加えられることが決定しましたが、諸般の事情から開学が遅れる可能性がありました。時期がずれて多数の受験生が殺到した場合を考え、二段階で選抜をすることにしました。一次試験はコンピューターで採点出来るマークシート方式の問題とし、その結果4倍で「足切り」をし、二次試験を行いました。問題作成には就任予定者の他、京都大学の多くの先生方のご協力を得ました。この方法は1979年に「共通第一次学力試験」が導入されたとき参考にされたと聞いています。幸い予定通り開学出来ることになり1975年4月10日102名の新入生を迎え守山の仮校舎で無事入学宣誓式を挙行することが出来ました。

開学と同時に私を含む11名の教授が着任して、すでに着任しておられた3名に加え、脇坂学長のもと14名で毎月第2、第4水曜日に教授会が開催されました。守山では一学年の基礎学過程の講義が始まりましたが、我々には実験室も教授室もなく、教授会や委員会の度に京大から駆け付けました。また、その頃瀬田キャンパスでの建築がスタートし、就任予定の教授・助教授らによる各種委員会の活動も活発になりました。私は排水処理委員会と図書委員会の委員長を仰せつかりました。当時としては最も優れた排水処理施設を設け浄化した水を下の大池に流す予定でしたが、大池は地元にとって神聖な池であり、大学の排水を流すのはけしからんとのクレームが付き、バイパスを造って「養老川」に流すことで地元との話し合いがつき予定通り開学することが出来ました。
 
図書館業務について全く無知の私が図書館長を仰せつかりましたが、有能なスタッフに支えられ、何とか業務を果しました。先ず、すべての就任予定教授にアンケートで希望購入図書を調査し、限られた予算の中で不公平が生じないよう考慮し購入図書を決定しました。当時、図書館は「図書の倉庫」から「情報センター」へ、また、司書は「本の番人」から「情報伝達のヘルパー」へと移り代わり、資料の形態も単に印刷物のみならず、多岐にわたる視聴覚資料が加わって、図書館の機能が大きく変わりつつある時代でした。それらの変化に対応出来る新しい図書館を目指して計画を立てました。そのため、事務職員と共に幾つかの大学の新しい図書館を見学して回り、従来の倉庫的図書館ではなく、集密書架以外は開架式の明るい図書館としました。また、大学設置基準の専門書30,000冊を達成するために、個人からの寄付や、他大学で重複したバックナンバーの寄付を受け、私のライトバンで受け取りに回ったのも懐かしい思い出です。

創設当時多くの困難がありましたが、新しい医科大学を創ることの喜びと希望に満ち、教員と事務職員が一体となり逐次変わる進捗状況に一喜一憂しながら取り組んだ日々は私にとっては貴重な体験であり、また、楽しい思い出です。1977年4月瀬田キャンパスでは一部の棟が完成し、新校舎に移転しました。その後、病院の開設、図書館の完成、大学院設置、分子神経生物学センターの設置、看護学科の併設、などなど順調に発展し、卒業生が各地で活躍している様子を見聞きするたび、創設期から関わった者の一人として誇りに思います。今後、県下の地域医療の中心としてますます発展されることを心より祈念いたします。

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