滋賀医科大学 名誉教授
松田 昌之
滋賀医科大学50周年 思い出される事
滋賀医科大学脳神経外科学講座は1979年4月1日、半田讓二教授、上條純成助教授、松田功助手、佐藤学研修医、中洲庸子研修医の5名が京都大学から着任して開講した。脳神経外科開講当時滋賀県内には脳外科は3ヶ月早く開設されていた大津市民病院(小山素麿部長)だけで、脳神経外科専門医は両病院で3名のみであった。静岡労災病院(現 浜松労災病院)に勤務していた私に半田教授からteaching staffが足りないので手伝ってくれないかとのお話があり、1980年1月1日付で講師として着任した。脳外科は6A病棟に産婦人科や耳鼻咽喉科などとの混合病棟で、初めての脳外科患者の受け入れで色々と困難、問題があったと着任してから聞かされた。勝手がよくわからずうろうろしているうち2週間後には脳外科の病床は整形外科との混合病棟3Cに移り落ち着いた。数年後には手術室前の3B病棟が脳外科単独の病棟となり、緊急手術の多い脳外科には大変都合がよかった。
現在では想像できないが、国道1号線瀬田駅前交差点から大学まで信号はなく、大学近くで赤十字血液センターへの分かれ道があるのみの一本道、大学関係者の専用道路のようで車で5分もかからなかった。大学へのアクセス、周囲環境は50年の間に大きく変わった。
一番印象に残っている事は1995年1月17日の兵庫県南部地震による阪神淡路大震災の際に阪神大震災滋賀医大医療救護班を派遣し、滋賀医大病院を挙げて対応した事である。当時私は救急部副部長を兼任しており、救急部の田畑良宏先生、第3内科の日高秀樹先生とともに阪神大震災滋賀医科大学医療救護班連絡会議世話人として派遣する医療救護班の編成、救護所に送る医薬品、医療器具はじめ食糧など必要品の準備など各診療科、各部門の連絡委員の方々と協議を重ね対応した。1月24日から医師、薬剤師、看護婦(師)、事務官、技官等1チーム10名前後を2泊3日で神戸市の避難所の一つ宮本小学校の救護所に派遣した。小澤和恵病院長自らも救護班長として2度も参加され、医療救護活動を牽引された。時間の経過とともに救護所を受診する患者数も減り、派遣人数も3〜4名に減らすとともに2泊3日の派遣は3月中旬で終了し、以後は3月末まで日帰りの派遣となった。3月31日救護所の撤収に当たり、小澤病院長とともに神戸市中央保健所長、衛生局長など救護所開設運営に当たり受けた配慮に対するお礼と救護活動終了の挨拶に回った。本医療救護活動ではのべ500余名にのぼる職員が直接現地に赴き、院内では彼らの支援に当たった職員は頻回に打ち合わせを行い、普段は親しく接する機会のなかった職員のお互いの理解を深める良い機会になった。
以上、27年3ヶ月の滋賀医科大学勤務で印象に残っていることの一部である。