Congratulatory Message

お祝いのメッセージ

滋賀医科大学の卒業生や関係各所から50周年を迎えお祝いメッセージをいただいております。

滋賀医科大学 名誉教授

滋賀医科大学名誉教授
同 救急集中治療医学講座客員教授
(医第2期生)

江口 豊

報本反始

滋賀医科大学設立50周年に際し、医学科第2期生・救急集中治療医学講座初代教授として寄稿させていただきます。

それは解剖体納骨慰霊法要の時のことであった。当時、横川霊山の慰霊碑はなく、法要は坂本の寺院にて行われた。法要の最後に、高僧から響き渡る地声で「お前ら普通の医者になったのでは許さん、必ず立派な医者になれ、滋賀医科大学を設立するのにどれだけの人々が尽力してきたか、私も献体している」と訓示があった。その激しい言葉は衝撃的で心に強く残った。今も時折思い返し、自分はあの高僧の思いに応えたのかと自問する。

多くの方々の期待や努力に支えられ、本学は創設から50周年を迎える。質の高い研究・教育、難病・重症症例の診断治療が県内唯一の大学・特定機能病院に期待された使命である。在学・卒業生はそのことに思いを馳せ、報本反始の心を持って日々研鑽してほしい。それは医師としての矜持に繋がるはずである。

卒業生一人一人の活躍が本学の歴史を紡いでいくこととなる。この50周年記念行事が、各々の思いを新たにし、本学がさらに発展してゆく節目となることを切望する。

滋賀医科大学 名誉教授

木之下 正彦

開学から50周年を迎えるにあたり、50年前を振り返ってみました。 私は1975年に滋賀医科大学内科学第一講座開講に際して故河北成一教授の助教授として滋賀県に赴任してまいりました。大学は開学していましたが、附属病院はなく、大津赤十字病院の一室を間借りした状態で、臨床はできませんでした。当時滋賀県では心臓手術が必要な症例は大阪、京都の病院に紹介されていましたが、ようやく1979年に 滋賀医科大学と成人病センターから心臓手術症例の発表がなされましたが、現在では滋賀県でも全国レベルと遜色のない循環器疾患治療が可能となり隔世の感があります。

私は大学院時代に心不全患者の腎循環と血液中のレニン、アルドステロン、抗利尿ホルモンの関係を研究して、学位論文に致しました。ハーバード大学生理学教室に故AC Barger 教授がイヌに心不全をつくり腎循環の研究をしておられましたので、そちらに論文を送付して留学することになりました。当時は心不全で交感神経が亢進し、レニンーアンジオテンシンーアルドステロン(R-A-A)が上昇するのは心不全の適応現象と考えていました。1987年にK Swedberg がアンジオテンシン変換酵素阻害薬であるエナラプリルを重症心不全患者に投与、プラセボに比較して1年後の死亡率を31%も改善することを示したConsensus 試験を発表しました。以後R-A-A系を抑制する薬を投与することで心不全の長期予後、死亡率を抑える報告がなされるようになりました。これは画期的なことであり、それまで日本では心不全患者に強心薬を投与して症状が緩解する治療を行っていましたが、それは心不全患者の予後をむしろ悪くする治療であったわけであります。これ以後心不全患者の治療が大きく変わった節目の研究でありました。私は亢進したR-A-A系が心機能の悪化因子であるとは考えずにむしろ保護的に働いているという間違ったコンセプトに基づいて研究していたわけであります。短期的には有効な治療法も長期的にみれば反って有害な治療法は、他にも抗不整脈薬投与で不整脈を整脈にしたが、死亡率が反って上昇したなど多くの試験があります。治療の有効性を判 定するには、K Swedberg によりR-A-A系が心不全の悪化因子である仮説をたてて証明した二重盲検比較試験の手法はエビデンスをつくる手法として広く存続していることは周知のとおりであります。

滋賀医科大学 名誉教授

瀬戸 昭

開学50周年を迎える滋賀医大へのオマージュ                         

滋賀医科大学が開学50周年を迎えるにあたり、心よりお慶び申しあげます。おめでとうございます!

1974年(昭和49年)まで県内に医師を養成する大学のなかった滋賀県に、政府の一県一医大構想に基づいて滋賀医科大学が創立され、それから50年の歳月が流れた今日、その大学が県下の医療リーダーとして多数の人材を輩出するまでに至ったことは歓喜に耐えません。滋賀医大と相前後して新設された医科大学は全国に16大学を数え、これによって無医大県は一応解消いたしました。しかし、これらの大学の多数が更なる政府の構想に従って、それぞれ地元の大学と合併し、その医学部として吸収され改編されてゆきました。しかしながら滋賀医大は、今なお単科大学として創立以来の理念を貫き通し、理想に邁進しているのです。

私は、滋賀医大の創立記念式典に1度だけ参列させていただいたことがあります。そして思いました:定年で退職して去って行かれた初代教授の先生方が滋賀医大になんと思慮深い置土産を残していかれたことか、と。「湖国と共に」、これこそ滋賀医科大学の持続的活性剤として永久に機能するものに間違いありません。

私自身は2004年(平成17年)の創立30周年の翌年、滋賀医大を退職いたしました。その折、私は何を残しただろうと考えた時慄然としたのです。初代の先生方が思慮深く当たり前の様になさったことが、私には何かを当たり前の様に出来なかったのです。私には自分のためのささやかな夢がありました。学生たちに残す何かではなく、退職後も自分で出来る何かを、例えば、発展途上国で何か仕事をしてみたいと思っていたのです。

幸い、JICAのシニア海外ボランティアに応募することを勧めてくれる先輩がいました。そして、まるで夢の中の出来事の様に、面接があり、健康診断と語学試験があり、合格通知をもらったのです。そして、この年の暮れから2年間ボランティアとしてモロッコのタンジェー・パスツール研究所にJICAから派遣される事になったのです。

そして、そこで待っていたのは厳しい試練の研究生活でした。1913年に創立されたタンジェー・パスツール研究所は、タンジェーの地政学的好条件から幾度も国際情勢に翻弄され、特に、1957年にモロッコが独立したことで、フランス人研究者がいなくなりフランスからの援助もなくなったことの影響は大きかったようです。私がタンジェーを訪れた時には、長らく捨て置かれていた研究所の改装が終わり、わずかに現地の人たちが研究室に戻り始めているばかりでした。

こんな場合の解決方法は、各人各様だろうと思いますが、君たちならどうする・・・? 私の場合は、幸運だったのですが、大学院時代の友人(寄生虫学者)の仲介で研究用試薬と専門知識の両面から支援を受けることができ、まだまだ不完全ながらも、研究成果を一つの論文にめることが出来たのです。それが:"モロッコ、タンジェー市において遭遇する非病原性株と病原性株のPCR法による鑑別と同定"です。

タンジェー・パスツール研究所

首都ラバトでの研修期間中

滋賀医科大学 名誉教授

先進的医療研究開発講座 特別教授

谷 徹

滋賀医科大学50周年記念 関係者からのメッセージ

私は本学と開学6年以降43年を供にして来ました。

1980年小玉教授の外科学講座に入局し、臨床医を目指すつもりでしたが、二年目に教授から「大学院に行って人工肝をやりなさい」と、突然言われました。大学院なるものを考えた事も理解もなく、人工肝なるものは初めて聞く治療法でした。あちこち相談に行き血漿交換なるものを教えて頂き、血漿交換研究会に参加し技術を学びました。血漿交換法を使い臨床で人工肝を実践し、エンドトキシン(Et)を用い免疫能を賦活化する制癌治療器開発が私の学位論文になったのですが、いざ製品化になると自然界最強の毒性を持つEtを治療に使うリスクを企業は避けました。そこでEtと結合する抗生物質(ポリミキシンB)を利用して血中のEtを結合除去する敗血症治療の血液浄化器開発となりました。

この頃クリーブランドクリニックの能勢教授から米国の学会で発表しないかとお誘いがありました。周りに海外発表の経験者もいませんので聞いたこともなく、学会への登録(レジストレーション)がわからず大変困りました。なんとか英語抄録を仕上げ、米国へ出発する日の午前0時を過ぎた頃に抄録の行間をダブルスペースに変えねばならない事が判明しました。当時はタイプライターで打ち込むため、一字間違っても全て書き直しでありました。それを寝ないで仕上げその朝、花澤、岡博士と関西国際空港から家族の盛大な見送りを受けて出発しました。

当時は日本に対する評判が非常に険悪で、2ブロック先に見えているビルまで行くのに「危ないから行くな」と言われる状況でした。現地ではクリーブランドクリニック留学中の先生方に優しく、色々教えて頂きました。会では壇上の先生が寝てしまうほど時差ボケが強い状況でしたが寝ないですみました。会の後はクリーブランドの能勢教授にお世話になり、研究を色々紹介して頂きました。ドタバタ道中でしたが米国の凄さに圧倒され、海外の事情は知らねばならないとの思いと、一点集中とアイデアで伍すことも可能で、新設医科大学の戦略になるとも感じました。

研究成果が製品となり講座は日本アフェレーシス学会の創設から関わり、1996年には国際血液浄化学会(ISFA)を山本章先生、小玉先生らが立ち上げられ、会の定款を作成する為、学会中に朝から夜の会近くまで連日海外の代表と意見の応酬がなされ、定款の言葉の重みと、東欧諸国の先生方の理屈の旨さと粘り強さにはたまげました。当時Head Quarterが日本にある国際学会はほとんどなく苦労しながら海外との繋がり方を経験しました。このように何も知らない分野を始め、成果を世に出し、国際学会運営の経験までしました。

この50年間は滋賀医科大学が新設医大としてほぼゼロから基盤を形成した時期に当たる、つまり先生方が日常的に英語で海外投稿出来る環境になる為の土台となったと思われます。今後50年間は、この財産を使ってグローバルな展開を図り、全く新しい切り口で医学を発展させるイノベーションを創造してほしいと心から願うものであります。

国際アフェレーシス学会設立、定款検討委員会(国際会議場にて)

国際人工臓器学会シンポジウム終了後のデイスカッション(クリーブランド)

国際人工臓器学会シンポジウム(クリーブランド)

クリーブランドクリニック研究所(人工心臓) 見学

 

Topics お知らせ

一覧を見る

SHIGA UNIVERSITY OF MEDICAL SCIENCE 50th Anniversary