Congratulatory Message

お祝いのメッセージ

滋賀医科大学の卒業生や関係各所から50周年を迎えお祝いメッセージをいただいております。

滋賀医科大学 名誉教授

西山 勝夫

滋賀医科大学開学50周年と日本医学会創立120周年

滋賀医科大学開学50周年の慶事に当たり、記念誌への寄稿の機会をいただき有難うございます。

日本の医学界を代表する日本医学会は、2022年、創立120周年にあたって3つの記念事業(現時点でもhttps://jams.med.or.jp/jams120th/のサイトで視聴可)を行いました。同事業では、ようやくではありますが、日本医学会自らが日本の医学・医療の戦争加担に真摯に向き合うことが示されました。この奇しくもの巡り合せについて記します。

 

日本医学会創立120周年事業での出来事

1つは、刊行された、全515頁の『記念誌』の「第3部 社会と共に歩んだ日本の医学の歴史と日本医学会」において、拙稿「毒瓦斯問題と軍陣醫學分科會」が掲載された(pp195-9)ことです。拙稿は、日本医学会の公式文書に基づき日本医学会自身が戦争に加担していたことを明らかにし、戦中の日本医学会の歴史を振り返ることは、日本医学会と医学界の課題であると結論しています。記念誌では、武藤香織東京大学教授も拙著などを引用して「戦争犯罪」に言及され、「報告書や証拠が残る事件でも,医学コミュニティ自身の手による総括がなされていないことは批判されている」などと言及しています。

2つ目の「式典・シンポジウム」では「未来への提言」の第4章の「医療倫理・研究倫理の深化」の冒頭で右下のスライドが提示されたことです。ここでは「医学・医療の名において、人間の尊厳·人権の尊重が蹂躙され、人々に大きな犠牲を強いた過去を持つ」として「戦時中に七三一部隊で中国人やロシア人等を対象とした非人道的な人体実験(当時の日本の医学界をリードしていた大学教授たちが多く参加していた事実)」などがあげられました。日本医師会が1949年の決議で「解決済み」としてきた「残虐行為」の内容が日本医学会自身によりようやく具体的に示されたのです。さらに、「私たちは、こうした過去の過ちに学び、将来にわたって非倫理的な状況が再び起こることのないよう、私たち自身の倫理を確固たるものとし、時には流れに抗うことも医学に携わる者の責務であることを改めて認識する」 と読み上げられました。日本医学会のこのような提言は初めてのことです。

その後、141全ての分科会(加盟学会)への照会と意見の収集と取りまとめなどを経て、2023年3月に3つ目の事業である『未来への提言』の完成版(全103頁)が日本医学会から発出されました(https://jams.med.or.jp/jams120th/images/teigen_jams120th.pdf)。『未来への提言』のp72にはシンポジウム時とほぼ同文が掲載され、前掲のスライド部分は日本医学会の公式の提言となったと思いました。『未来への提言』は、全国医学部長病院長会議を通じて、滋賀医科大学では、2023年5月18日付の総務企画課長メール「日本医学会創立120周年記念事業『未来への提言』 について」により、学生・教職員各位に周知が図られています。

 

在職中の思い出と重ねて

予防医学講座の初代教授の渡部眞也先生に、関西医科大学衛生学教室の細川汀先生のもとで研鑽したのを認めていただき、1977年創立間もない同講座の助手に私は任用され、2008年3月に定年を迎えました。その後も名誉教授として滋賀医科大学にお世話になり、深謝しています。

労働衛生学の実践面では、国立大学の法人化を機に、自らの職場での労働組合づくりの相談につながり、滋賀医科大学教職員団体の結成(2004年1月)に至ったことが思い出されます。同団体が教職員の約7割もが参加されるまでになって結成20周年を迎えられたことも同慶に堪えません。

予防医学講座二代目の教授に任ぜられた(1996年)後は、労働衛生学・環境衛生学だけでなく「戦争と医学」「医の倫理」もテーマとしました。「医の倫理」などの授業でも、教材としてナチスドイツだけでなく日本についても、国や医療界・医学界が認めるべき事実や、明確にすべき問題について理解が得られるよう努めました。学外では、15年戦争と日本の医学医療研究会という全国的な共同研究の場の構築(2000年)や「戦争と医の倫理」の検証を進める会の活動にも参加し、現在も尽力しています。

私は道半ばですが、滋賀医科大学開学50周年に機を合わせるように示された日本医学会の提言が、滋賀医科大学においてもいかされ・実現されることを願ってやみません。

滋賀医科大学 名誉教授

永田 啓

守山から瀬田へ。初まりの頃

滋賀医大の2期生として大学に入学したときには、仮校舎が守山の成人病センター(今の滋賀県立総合病院)のところにあって、瀬田キャンパスはまだ造成中でした。当時は教養の科目の中に体育もあったので、みんなで仮校舎のまわりの、のどかな田園地帯を走ったり、安くておいしい食べ物屋をさがしまわったりと、のんびりした学生生活を送っていました。守山から引っ越してきたときには、瀬田キャンパスは福利棟や教養棟はありましたが、まだ管理棟もできていない状態で、運動場は整備が進んでおらず、雨が降ると泥の海状態。次々と建物の工事が進んでゆく中、ちょっとずつ今のキャンパスの形ができてきました。

何もかもが初めての事の連続で、教職員も学生もいっしょになって、手探りで大学を作ってゆく楽しさがありました。クラブも作りたてで、他の大学と試合ができるほど人数もおらず、いくつものクラブをかけもつのがあたりまえ。同級生で集まって誕生日会をやったり、草野球をしたり、船上のダンスパーティーをやったりと、いろんな催しを考えては、おたがいの交流を図っていました。

若鮎祭も、学生の人数も少ないので、ほとんど全員参加で、教職員もいっしょになって、市民のみなさんや周囲の大学の学生さん達にも見に来てもらおうと、結構みんながんばっていました。

あれから随分と時間が経ったのですが、今でも学内を歩くと、そのころを思い出す景色がいっぱいあります。大学を離れて久しい卒業生の皆さんも、50周年記念をきっかけに、気軽に大学を訪れて、なつかしい情景を思い出してみませんか。

湖医会では、みなさんの学生時代の写真や、昔のキャンパスや周辺の写真を集めています。
今度、福利棟の2階にできる「湖医会ラウンジ」に来てもらえば、そうした昔のなつかしい写真を見ることができるように、準備しています。ラウンジが完成したら、ぜひ訪ねてください。

滋賀医科大学 名誉教授

犬伏 俊郎

初めて尽くしのMR研究室

開学50周年おめでとうございます。本来ならばこれまでの研究成果を纏めるべきところですが、今回はこれまではあまり語らなかった事柄を記してみたいと思います。

実は私は京都大学の工学部を卒業後、すぐにアメリカへ留学し、そのまま10年以上滞在を続けていました。前職はペンシルベニア大学医学部の高分解能NMR施設のディレクターでした。NMRの施設は化学や生化学系の学部に設置されることが多い中で、電子工学やコンピューターの扱いにたけた人材がほとんどで、装置の修理や維持はもちろん、独自の装置開発も担う、一種独特な職種でした。もちろん化学出身の私にはかなり厳しい仕事で、さらに施設の維持・管理の費用を競争的資金で賄うため、書類づくりに翻弄される毎日でした。

そんな中、滋賀医科大学に臨床用のMRIが導入され、それに付随して2T(テスラ)の動物実験用MR装置が整備されることになり、これらの装置を使って研究をしてみないかと、当時の佐野西洋学長からお招きをうけました。ちょうどビザの関係で帰国し、横河メディカルでMRの応用部門を担当していましたので、喜んでお引き受けしました。会社から寄付講座として研究費と人員までつけて送り出してもらいました。

いざ研究がはじまりましたが、実験センターからお借りした居室や実験室は空の状態でした。これ幸いにと、すすけた壁を塗り替えることにしました。ただし、施設課からは器物損壊に当たると注意をうけましたが後の祭り。それでも、病院の放射線科のMRI棟の一角に、動物実験用の2T MRIが整備され、自由に実験させていただきました。この装置にも最新のアクティブ・シールドの傾斜地場コイルを購入し、これだけで初年度の研究費がなくなってしまいました。もう一つ、臨床検査用の1.5T MRI装置も、時間外には実験に使わせていただきました。ヒト体内の代謝物質を解析するMRS(MRスペクトロスコピー)の研究が中心でしたが、多くの臨床科との共同研究が盛んにおこなわれ、先端医療開発経費の獲得や手術用ioMRの導入につながりました。

さらに動物実験用7T MRIが設置されました。この導入は大学の事務局の大変なご尽力の賜物で、装置を収容する独立の建屋も建てていただきました。MRの実験に適した動物処置室や電気・機械工作室も含むMR専用の実験棟ができました。このクラスの動物用MR装置の導入は我が国で初めてであり、その後の同種装置の設置のモデルとなりました。

MRの研究をとおして学内はもちろん学外の方々と活発な交流がおこなわれました。付記しておきますが、MR棟の隣にバイオメディカル・イノベーション・センターがあります。学外の研究者が腰を据えて実験ができる環境と交流の場を確保するためにできる限り研究室や居室を抑えて廊下を含む共通のスペースが確保されています。セミナー室は満員になるとウッドデッキから視聴でき、交歓のために壁を取り払い、建物を一体化し、カウンターバーもあります。是非、これからも学内外の交流が盛んであることを願っております。

写真 1:放射線科の1.5T MRI操作卓の横にまで進出していた研究用のコンソールやデータ・ステーション(1998年)。放射線科には多大なご迷惑をおかけしましたことをお詫び申し上げます。

写真 2:廃棄処分になってしまいましたが、苦労して導入した動物実験用7T MRIの磁石の設置風景(2004年)。当時は我が国で初めての超高磁場MRI装置でした。

滋賀医科大学 名誉教授

市立大津市民病院理事長、
滋賀医科大学名誉教授

河内 明宏

画像:河内 明宏

開学50周年おめでとうございます。2013年に泌尿器科学講座に赴任してきてからあっという間に10年が経ちました。その間、多くの医師、職員、学生の方々と触れ合い、多くの思い出が残っています。大変お世話になりありがとうございました。今後も地域から精一杯の応援を届けたいと思います。100周年に向けてさらに発展されることを祈念しています。

滋賀医科大学 名誉教授

島田 司巳

建設途上の滋賀医科大学へ

1974 年の秋口、中村恒男名誉教授が府立医大の小児科医局に私を訪ねてこられました。 ご訪問の趣旨は、来年度から滋賀県に医大が新設され、自分が副学長·兼小児科教授に就任することになったので、助教授として私に同行してほしいということです。

ご持参された資料を拝見すると、偶然にも、 その年の春に転居したばかりの現住所(大津市一里山) のすぐ近くです。 楠木教授の事前了解も済んでいるとのことであり、喜んでお供させていただくことに決しました。

 

小児科のスタートは大津日赤の仮医局

1975年4月、滋賀医大に赴任した小児科スタッフは中村恒男副学長·兼教授、助教授(著 者)、山野恒一助手(1970年卒、後 · 助教授、大阪市大小児科教授)の僅か三名です。

赴任はしたものの、瀬田丘陵のキャンパス予 定地は土地造成中であり、第一陣の臨床講座には当時関連病院であった大津日赤に仮医局を宛がわれ、私と山野助手はそこに通勤していました。

 

「造り、育てる」を目指した四半世紀

ゼロからの講座立上げに、私達は大きな夢を持って立ち向かいました。産声を上げたばかりの滋賀医科大学と小児科を、万難を排して、歴史のある医学部と遜色のない、否それを凌ぐものに育てたい。これが当時のスタッフ共有の熱い思いでした。

熱い思いとは裏腹に、関連病院と名の付く病院はなく、初期研修の多くを京都府立医大の関連病院等に依存する状況がしばらく続きました。研究·診療分野でも神経、循環器、内分泌以外は、指導者の養成から始めなければなりません。

私の専門分野である小児神経関係では、幸い当初より厚生省神経疾患研究委託研費、文部省科学研究費等が得られましたが、他の研究·診療グループには講座費以外には研究費はありません。 私共は全てを均等に分かち合い、寸暇を惜しんで研究活動や学会活動にも励み、次第に実績が認められるようになりました。

日本小児神経学会には若手優秀論文賞の制度 がありますが、私の教授在任中に5名がこれを受賞しました。

土地造成中の滋賀医大に赴任して以来、助教授3年、教授22年に及ぶ四半世紀は、まさに「造り、育てる」ことへの夢と希望に満ちたものでした。

なかでも、小児科講座の要として私を支えいただいた初代大矢紀昭(1964年卒)、及び第2代山野恒一(1970年卒)の両助教授が、新設医大という不利な環境の下で、刻苦勉励し、それ ぞれ滋賀医大看護学科教授·学科長(現·滋賀医大名誉教授)、及び大阪市立大学医学部小児 科教授(現·大阪市大名誉教授)として栄転されました。 私の定年退職を飾るにこの上ない贈り物であったと感謝しているところです。

(京都府立医科大学雑誌 第126巻 第3号p183-193「小児神経学から障害児者福祉へ」より)
*本稿は、京都府立医科大学雑誌編集委員会の許諾を得て、部分抜粋の上、転載したもの

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